日本との関係
明治期の国交開始
両国間の公式な外交関係は、1882年3月10日にミラン一世オブレノヴィッチ王が日本の明治天皇に書簡を出し、それに対する明治天皇からの返書により始まりました。
セルビアを独立国と認め、両国関係が正式に始まりました。
国交125周年を記念して、2007年12月23日の天皇誕生日を祝して『初日』と題された記念切手と封筒(初日カバー)がセルビアで発売されました。
除虫菊とのかかわり
除虫菊はセルビアやダルマチア原産の殺虫効果のある植物です。野原から摘んできた花を部屋に飾っておいたところ、枯れた花束の周りでたくさんの虫が死んでいるのが発見されたことから効力の研究が始まりました。19世紀末に、慶応義塾の創始者福澤諭吉氏の紹介で出会ったH・Eアモア氏からその種子を入手したのが、大日本除虫菊㈱の創始者上山英一郎氏でした。上山氏は、除虫菊の栽培奨励のため全国を行脚して生産拡大に努め、原料としての輸出だけでなく、蚊取線香やエキスを抽出した殺虫液の開発といった除虫菊の用途拡大、効率的な栽培方法の考案をし、1920年代に日本の除虫菊の輸出量はユーゴスラヴィアと競合するほどになり、1930年頃には生産量は世界一になりました。その成分が今でも殺虫剤として、私たちを害虫から守ってくれています。
1929(昭和4)年、アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ王の時代に、上山英一郎氏が初代大阪駐在ユーゴスラヴィア王国名誉領事に任命されました。翌1930(昭和5)年に上山勘太郎氏が大阪駐在ユーゴスラヴィア王国名誉副領事に任命されました。
第二次世界大戦後、ユーゴスラヴィアは、1952年、日本がサンフランシスコ講和条約発効と同時に外交関係を回復した最初の国々のひとつでしたが、在大阪セルビア名誉総領事館の再開は、2004(平成16)年になってからのことでした。
即ち、上山英一郎氏の曾孫が代表取締役社長を務める大日本除虫菊株式会社が営業を存続していることを在京セルビア・モンテネグロ共和国フィリポブ大使が知り、2004(平成16)年、上山直英氏が名誉総領事に就任、在大阪名誉総領事館が開設されました。
日本の協力
カレメグダン公園の『日本の泉』と称される噴水
(写真提供:黒澤啓氏)
このように、セルビアの人たちが何を求めているのかに耳を傾けた結果、目に見える支援のかたちとなり、そのことが日本への感謝の思いに結ばれています。2010年には、カレメグダン公園の一角に『日本の泉』と称される、鹿威しをかたどった「日本に感謝するための」噴水が作られました。
そして善意の連鎖
2011年3月の東日本大震災の折に、セルビア国民が他国に先駆けてこぞって多額の寄付をし、その支援が大きな話題になりましたが、震災7か月後(2011年10月11日)の時点で、国際赤十字を通じてヨーロッパ第1位、世界第5位の義捐金がセルビアから寄せられました。
2014年5月のセルビア国内各地での河川の氾濫による大規模な洪水被害への寄付の呼びかけに対して、日本各地から寄せられる圧倒的なまでの善意がありました。在京セルビア大使館からいち早く発せられた1枚のプレスリリースが、TV報道に加え、webで瞬く間に拡散しましたが、それに付随して、東日本大震災の折にセルビア国民が示してくれた友好のかたちが驚きをもって日本中に知られることとなり、それを知らなかったという驚きも含めて、多くの日本人の心を揺り動かし行動に駆り立てるものとなりました。しかしながら、なぜ、それほどまでにセルビアの人たちが日本を好きなのか、という理由は、残念ながらまだあまり知られていないようです。
今後の二国間関係に高まる期待
ユーゴ内戦終結後、セルビアが国際的に孤立し、経済制裁を受けるなど、大変苦しい時代に逢沢一郎衆議院議員らと超党派の友好議員連盟を結成し、シンポジウムや勉強会を開催してバルカン半島に関する理解を深める尽力をした米田健三氏(当時・衆議院議員、現・日本セルビア協会顧問)は2002年にコシュトーニツァ大統領宛の小泉総理の親書を携えてベオグラードを訪問されました。
2015年5月には、逢沢一郎友好議員連盟会長がセルビアを訪問、ニコリッチ大統領・ダチッチ副首相兼外務大臣と会談を果たし、両国間の関係発展について言及されました。